<寺尾で候>
日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。
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今オフはどの球団も外国人補強が活発だった。来季は助っ人の成否がカギを握る。これが裏目に出るとペナントレースから脱落していくだろう。
外国人獲得はネットワーク、スカウティングの目利きが明暗を分ける。阪神では途中入団の内野手ソラーテが華々しくデビューしたかに見えた。
来日6日目の7月26日の巨人戦(東京ドーム)でチームに合流すると、「2番遊撃」でスタメンに名を連ね、いきなり決勝の1号2ランを放った。
フィールディングも無難にこなした。この時点ではまさか“ハズレ”だとは思いもしなかった。戦列デビューの一夜明け、手元の電話が鳴った。
「あのソラーテってショートですが、プレーに“品格”がありませんな」
声の主は、85年阪神日本一監督の吉田義男だった。
「お言葉ですが…」と前置きし、「ショートに品格って必要なんですか?」というと返す刀で聞いた。
「そう、そう。必要です。ショートストップには品格が必要なんですわ!」
ソラーテの人格を否定しているわけではない。現役時代に「牛若丸」と称された名遊撃手は、一瞬のうちに力量を見抜いたのだった。
ショートの品格についてヤクルトの名手、前ヘッドコーチの宮本慎也に問うてみた。
「あまり見えないところのカバリングとか、アシストができるということではないでしょうか」
結局、ソラーテは20試合(打率1割8分8厘、4本塁打、9打点)に出場しただけで契約解除。「モチベーションが上がらない」との問題発言を残して日本を去っていった。
かつて日米野球で来日したヤンキース監督ケーシー・ステンゲルは、吉田の守備を「ファインアート」と表現した。だから吉田が守備を見る目は特別厳しい。
ショートの品格を地でいったレジェンドは、新外国人5選手に「矢野監督の見極め次第です」と説く。
「いろんな数字を見るとサンズという右の外野手は期待できるんと違いますか。福留、糸井、近本が基本線というが、3人のうちの2人を起用し、あとはサンズを使うんじゃないですか」
まだ見ぬ助っ人とはいえ、早々とソラーテにダメ出しを予言しただけに、捨て置けない見通しに感じた。(敬称略)
よっさんの予言が当たりますように!🙏
#日刊スポーツ
「いろんな数字を見るとサンズという右の外野手は期待できるんと違いますか。福留、糸井、近本が基本線というが、3人のうちの2人を起用し、あとはサンズを使うんじゃないですか」by吉田義男 pic.twitter.com/9aZY0GSRDK
「ソラーテ品格ない」吉田義男氏が来季助っ人を予言(日刊スポーツ) - Yahoo!ニュース
吉田、藤田平、安藤、川藤など阪神には外様を徹底的に嫌ううるさいOBが多い
確かにソラーテの件は吉田が言う通りやけどな
だから歴史はあっても伝統がない球団って言われるんや https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191227-12260719-nksports-base …
@nikkansports ロサリオで懲りたなあ・・予言してなかった?
批判ではないですよ・・外角のスライダー
くるっ
【#週刊ベースボール60周年記念企画】
阪神・吉田義男、退団の理由を語る/週ベ回顧
吉田は村山実が兼任監督になったとき、自分はやめるべきと思ったという。先輩の意地ではなく、村山がやりやすい体制をつくるためには、自分はいないほうがいいと判断したからだ
#tigers
https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20191216-01 …
1969年12月24日、阪神の吉田義男選手兼任コーチが午後3時からの梅田市の阪神電鉄本社3階会議室での今オフ3度目の話会いで、退団が決定。1回目は球団は選手として残留を希望も保留、2度目はスタッフとして残留を希望も「不自然な形になる」(戸沢)のため保留。来年は大リーグを視察。デイリー69.12.25 pic.twitter.com/D378Np2tq1
「今牛若丸」と呼ばれる守備の名手だった元阪神の吉田義男さんは、プライベートでも常にボールを持って、右手の感覚だけでボールの縫い目が分かる練習をしていたらしいの。だからあたしも感覚だけでコーヒーを淹れる時の分量が分かる練習として常にコーヒー豆を持ち歩いているの!
1965年セリーグベストナイン 1村山実(阪神) 2森昌彦(巨人) 3王貞治(巨人) 4高木守道(中日) 5長嶋茂雄(巨人) 6吉田義男(阪神) O江藤愼一(中日) O近藤和彦(大洋) O中暁生(中日)
吉田 義男(よしだ よしお、1933-)
大阪-阪神(1953-1969)
今牛若丸と称された名手。守備では数々の記録を打ち立てた。打撃でも1864安打を放っている。チームの2度のリーグ優勝にも貢献した。背番号23は永久欠番。監督としては1985年の日本一に導いた。