とらほー速報

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    ランディ・バース

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    1: 名無しさん@\(^o^)/ 2020/05/10(日) 20:01:59.58 ID:Yc5LQol30
    能力は三冠王達成時を基準として

    2: 名無しさん@\(^o^)/ 2020/05/10(日) 20:02:18.91 ID:05E9lhfD0
    試合なし

    引用元: http://tomcat.2ch.sc/test/read.cgi/livejupiter/1589108519/

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    バースは4選手の中で80%もの得票を集めるぶっちぎりのトップ
     新型コロナウイルスの感染拡大の影響で開幕が延期となっているプロ野球。なかなか開幕が訪れずに“野球ロス”になっているファンの方々も多いだろう。そんなファンの人たちに少しでも“野球ロス”を埋めていただきたく、Full-Count編集部ではファンの人たちと一緒になって楽しめる企画を検討してきた。

     そこでツイッター上では12球団の“歴代最強助っ人”アンケートを実施。編集部の独断で各球団の助っ人投手、助っ人打者で特に印象深い選手を4人ずつ選出(NPB他球団からの直接の移籍加入選手は除いた)。そこからファンに投票してもらい“歴代最強助っ人”を決定した。第10回は阪神編だ。

     1935年に大阪タイガースとして生まれた阪神は、巨人に次ぎプロ野球で2番目に歴史のある球団だ。球団が誕生して、実に85年。それまでに数々の思い出深い助っ人がプレーしてきた。候補者を選ぶのも難しかったが、その中でファンが選んだトップは投手がランディ・メッセンジャー、野手がランディ・バースの“Wランディ”だった。

     マリナーズからFAとなり、2010年に阪神に入団したメッセンジャー。入団当初はリリーフとして起用され、さらには外国人枠の問題でファーム落ちも経験した。そこで先発に転向すると、これが大きな転機となった。1年目は5勝止まりだったが、2年目には12勝をマークし、阪神のエースとなった。

     そこからの活躍はファンならご存知の通り。4年連続で2桁勝利をマークし、2014年には13勝で最多勝も獲得。2013年、2014年は2年連続で最多奪三振のタイトルも獲得した。9勝だった2015年を挟み、2016年から再び3年連続2桁勝利。昨季で惜しまれながら現役を引退したが、NPB通算98勝、日米通算では102勝をマークした。メッセンジャーに次ぐ2位は「JFK」の1人として活躍したジェフ・ウィリアムス、64歳で3日に亡くなったことが明らかになったマット・キーオは、ジーン・バッキーと共に7%の得票だった。

     野手はもちろん、この人以外にいないだろう。2年連続3冠王のランディ・バースだ。実に得票率は80%。2位のマット・マートンが16%で64%の大差をつけたぶっちぎりのトップだった。

     1983年に阪神に入団したバースは掛布雅之、岡田彰布らと強力なクリーンアップを形成。1年目からいきなり35本塁打を放つと、3年目の1985年には打率.350、54本塁打134打点で史上6人目の3冠王に。さらに翌1986年にはNPB歴代最高打率となる.389、47本塁打109打点で2年連続の3冠王を成し遂げた。

     1985年と1986年にはパ・リーグで落合博満も2年連続で3冠王となっており、セパ両リーグでの3冠王誕生というプロ野球の長い歴史でもこの例しかない偉業が2年連続で達成された。また、バースは掛布、岡田と共に伝説の“バックスクリーン3連発”を記録するなど、記録にも記憶にも残る助っ人だった。

     2位だったマートンは2010年に入団すると、いきなりイチローの持つシーズン最多安打記録を塗り替える214安打を記録。その後も首位打者1回、最多安打3回と活躍し、2015年まで6年間、阪神でプレーした。セシル・フィルダーとトーマス・オマリーはそれぞれ2%の得票だった。




    ファンが選ぶ 12球団 “最強助っ人” は?  阪神は バースとメッセンジャーの “Wランディ” (Full-Count) 👏👏😁⤴︎  https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200504-00762618-fullcount-base 



    史上最強の助っ人外国人、といえばやはりこのビッグネーム! ファンが選ぶ12球団“最強助っ人”は? 阪神はバースとメッセンジャーの“Wランディ” | Full-count  https://full-count.jp/2020/05/04/post762618/ 


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    1: 名無しさん@\(^o^)/ 20/05/04(月)12:18:30 ID:tpQ
    1987年 ランス(広島)39本 :バース 37本
    1989年 パリッシュ(東京)42本 :フィルダー 38本
    2003年 ラミレス(東京)&ウッズ(横浜)40本 :アリアス 38本
    2005年 新井貴浩(広島)43本 :金本知憲 40本
    2007年 村田修一(横浜)36本 :金本知憲 31本
    2010年 ラミレス(巨人)49本 :ブラゼル 47本

    2: 名無しさん@\(^o^)/ 20/05/04(月)12:19:03 ID:vzn
    新井が悪いよ

    引用元: https://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1588562310/

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    ○1982年:落合博満(ロッテ)
    打率.325(.010)32本(2)99打点(14)
     1981年に初めて規定打席に到達していきなり首位打者になった落合は、その翌年の1982年に3冠王となった。本塁打では日本ハムのソレイタと激しい競り合いを演じたが、2本差で振り切った。28歳のシーズンでの3冠王は史上最年少だった。

    ○1984年:ブーマー・ウェルズ(阪急)
    打率.355(.008)37本(4)130打点(29)
     1983年に来日したブーマーは来日2年目に外国人で初となる3冠王となった。身長2メートル、体重100キロの巨漢だったが、パワーに加えて巧みなバットコントロールも発揮し、この年はパ・リーグMVPにも輝いた。

    ○1985年:ランディ・バース(阪神)
    打率.350(.008)54本(14)134打点(22)
     阪神が21年ぶりにリーグ優勝を果たした1985年。バース、掛布、岡田、真弓と実に4選手が30本塁打を記録して圧倒的な打力でリーグを制した。この年が来日3年目だったバースは、打線の核として驚異的な打棒をふるった。

    ○1985年:落合博満(ロッテ) 
    打率.367(.024)52本(12)146打点(24)
     1982年にも3冠王となっていた落合は、王貞治に次ぐ史上2人目となる2度目の3冠王に輝いた。この年の146打点は歴代3冠王のなかでも最多。バースも3冠王となり、初めてセパ両リーグで同時に「3冠王」が誕生した。

    ○1986年:ランディ・バース(阪神)
    打率.389(.026)47本(10)109打点(4)
     前年にリーグ優勝を果たしていた阪神は3位に沈んだものの、バースの打撃はさらに凄みを増すシーズンとなった。NPB記録である打率.389をマークし、2年連続で3冠王に輝いた。

    1985年、1986年は2年連続でセパ両リーグで3冠王が誕生
    ○1986年:落合博満(ロッテ)
    打率.360(.010)50本(8)116打点(1)
     NPB史上でただ1人となる3度目の3冠王に輝いた1986年の落合。1984年の3冠王ブーマー、西武の秋山幸二との競り合いを繰り広げ、打点は秋山とわずか1点差だった。2年連続でセパ両リーグで3冠王が誕生。これはNPBの歴史でもこの1度しかない。

    ○2004年:松中信彦(ダイエー)
    打率.358(.013)44本(0)120打点(12)
     1986年の落合から18年後、松中が“平成唯一の3冠王”となった。本塁打王は、日本ハムのセギノールと44本塁打で分け合った。タイトルを分け合っての3冠王は11度で唯一だった。

     それでは“3冠王の中の3冠王”を以下の3条件で選んでみたい。

    ・各部門で2位との差が大きいこと
    ・3部門の数字が客観的に高いこと
    ・リーグの平均値より傑出していること

     単純に数字だけを比較すれば、打率.350、50本塁打、130打点をすべてクリアした1985年の阪神ランディ・バースとロッテ落合博満が最高と言うことになる。しかし、1985年のリーグ打率は両リーグともに.272と高かった。また、1985年の本塁打数はセが947本、パが1050本。バースの本塁打はリーグ全体の5.7%、落合は5.1%だった。リーグ打点はセが3488点、パが3872点。バース、落合の打点は、ともにリーグ全体の3.8%だった。

     これに比べると、王貞治の1973年の3冠王は打点だけが130点に届いていない。しかし、1973年のセ・リーグのリーグ打率は.237。1985年よりはるかに打低だった。この年のセ・リーグの本塁打数は679本。王の本塁打はリーグ全体の7.5%を占める。リーグ打点は2499点。王1人でリーグ全体の4.6%となる。3部門とも2位との差は大きい。これらを勘案すると「3冠王の中の3冠王」は、投高打低の時代に、飛び抜けた成績を残した1973年の王貞治と言えるのではないだろうか。




    王かバースか落合か… 84年で7人しかいない3冠王で“最強の3冠王”は?(Full-Count)  https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200503-00764391-fullcount-base  比べることがナンセンス


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    史上最強の助っ人バースは、ヤクルト入団寸前だった-。阪神日本一への号砲となった、1985年(昭60)4月17日、甲子園の巨人戦でのバックスクリーン3連発から35年。先陣を切って3ランを放ったランディ・バースが阪神に入ったのは、隠された幸運によるものだった。当時ヤクルトの通訳で、後に優良助っ人の獲得に辣腕(らつわん)を振るった中島国章氏(67=写真)が、球史に埋もれた秘話を語った。【取材・構成=高野勲】

       ◇   ◇

    1982年(昭57)オフ。ヤクルトの通訳だった中島氏は、相馬和夫球団代表、武上四郎監督とともに、米ハワイでのウインターミーティングに参加し、新外国人候補を物色していた。すると、パドレスのジャック・マキーオン代表に呼び止められた。ヤクルトの当時のキャンプ地アリゾナ州ユマで、同球団の施設を借りていた縁だった。

    中島氏 パドレスからレンジャーズに移った左打者で「ウオーニングトラック・フライボールヒッター」がいると情報を得ました。それがバースでした。

    ウオーニングトラックとは、外野フェンス手前で芝生の色が変わっていたり、白線が引いてある場所のこと。外野手にフェンスが近いことを知らせるため、こう呼ばれる。バースはそこまでは打球を飛ばせるが、米国の広い球場では柵越えを打てないという評価だった。現にメジャー6年間で9本塁打に終わっている。だが3A全7シーズンで2桁本塁打を放ち、80年には37本を記録していた。

    強い関心を持ったヤクルト一行は、同じく参加していたバースの代理人アラン・ミヤサンド氏との接触に成功した。3人と同じホテルに泊まっていた同氏の部屋で何度もビデオを回し、打撃フォームを分析した。

    中島氏 重心が低く、何より安定感がありました。打球も広角に飛ぶ。ヒッチ(打つ前に手首を下げる癖のこと)も小さい。これなら落ちる球にも対応できる。狭い日本の球場なら、現状の飛距離で十分と判断しました。「環境に慣れれば大化けする」と思い、獲得へ大きく傾きました。

    ミヤサンド氏の元には、日本の複数球団からバースに関し問い合わせが来ているという。だがマキーオン氏から「ヤクルトとの交渉を優先してくれ」と頼まれ、他球団への返事を保留してくれていた。ヤクルトのバース獲得は、もう目の前だった。

    ところが、事態は思わぬ方向へ展開する。前年に膝を故障していたバースは、守備に難があった。ポジションが一塁に限定されていた。当時ヤクルトの一塁には、大杉勝男、杉浦享と強打者が2人もいた。

    中島氏 バースが外野を守れない、と分かった瞬間に雲行きが変わりました。武上監督が「大杉、杉浦の2人は打線から外せない」と判断したんです。

    ヤクルトは方針を大きく変え、補強ポイントを二塁手に切り替える。この年オフに阪急(現オリックス)を退団し、強打と堅守を誇ったボビー・マルカーノを入団させた。この後、阪急との一騎打ちを制し阪神がバースを獲得する。阪急にはブーマー・ウェルズが入団した。そして85年10月16日、神宮でのヤクルト-阪神戦。優勝を決め大喜びするかつての恋人を、中島氏は一塁側ベンチで見届けた。

    中島氏 バースが狭い神宮でプレーしていたら、いったい何本ホームランを打ったんだろうと今でも思います。彼とは球場で、何度も言葉を交わしましたよ。「日米文化の違いについて知りたい。周りとうまくやっていきたい」と謙虚に聞いてきました。「あなたはヤクルトに入団するはずだった」なんて話は、していませんけどね(笑い)。

    勝負事に「もし」は禁句ではある。だがバースがヤクルトに入っていれば、85年巨人戦での掛布雅之、岡田彰布とのバックスクリーン3連発は起こり得なかった。いや、同年の阪神日本一もなく、球界の歴史は一変していたかもしれない。史上最強助っ人の誕生は、38年前の人知れぬ幸運に始まっていた。

    ◆ランディ・バース 1954年3月13日生まれ、米国オクラホマ州出身。66歳。ロートン高から米球界を経て83年阪神入り。来日当初は夫人のホームシックや父の死など試練が続く。85年に3冠王を獲得し、阪神の21年ぶりのリーグ優勝と初の日本一に貢献し、MVPを受賞した。翌86年も2年連続3冠王で同年の打率3割8分9厘は現在もNPBのシーズン最高。88年途中に長男の病気で帰国し、そのまま退団した。現役時代は184センチ、95キロ。右投げ左打ち。引退後はオクラホマ州の上院議員を務めた。




    バースはヤクルト入団寸前だった 3連発から35年  https://www.nikkansports.com/baseball/news/202004170000286.html?Page=2  神宮ホームのヤクルトバースとかエグいことなりそう



    バースはヤクルト入団寸前だった 3連発から35年 #SmartNews もしヤクルトに入団していたら、タイガースの日本一も無かったかも?  https://www.nikkansports.com/baseball/news/202004170000286.html 



    この篭りモード真っ最中、こうゆう記事出てくるあたりニッカンは永遠だなぁ… 朝日は微妙すぎるのでニュースはYahoo軸にしてるけど、野球をはじめとするスポーツはニッカンWebが頼りになる。


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