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    日本ハム監督

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    引用元: https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1664177445/

    1: 名無しさん@\(^o^)/ 2022/09/26(月) 16:30:45.16 ID:CAP_USER9
    https://www.daily.co.jp/baseball/2022/09/26/0015671822.shtml

     日本ハム監督の新庄剛志ビッグボス(50)が26日、自身のインスタグラムを更新し、
    「突然ですが、9月28日の札幌ドーム最終戦 皆様にご報告があります」と投稿した。

    背番号1のユニホーム姿で札幌ドームに向かって立つ背後からの写真を添え、何らかの重大報告を行うことを示唆した。

     28日には本拠地最終戦のロッテ戦(札幌ドーム)が予定されており、「是非、球場の方に足を運んでもらえると嬉しいです」と、ファンへ来場を呼び掛けた。

     コメント欄には早速、「まさか、悪い方かね?」「辞める報告イヤいや~」「続行ですよね~」などの言葉が並んだ。

     新庄ビッグボスは就任1年目の今季ここまで139試合を戦い、56勝80敗3分け、勝率・412。3試合を残して最下位が既に決定している。

     来季去就についてはこれまで明言をしていない。
    節々に来季についての熱い思いを語る一方で、「「球団から『お願いします』と言われても、残り試合でこのチームが成長できないかなと思ったらわからないし。
    オレっていう人間はオレもわからんから。『あとは頼んだ』ってなるかもしれないよ」などと話している。

    no title

    64: 名無しさん@\(^o^)/ 2022/09/26(月) 16:50:29.34 ID:95T04fWl0
    >>1
    来年もやります

    背番号1は清宮に譲ります

    どっちかだろ?

    6: 名無しさん@\(^o^)/ 2022/09/26(月) 16:32:31.52 ID:Aicn63MO0
    前々から言ってた背番号1を誰かに渡すんだろ

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    ハワイウインターリーグ、ヒロ・スターズに参加していた当時の阪神・新庄(右=現日本ハム監督)と北川(現阪神打撃コーチ)=1996年10月24日撮影=

     【内田雅也の広角追球】「ビッグボス」と自称した日本ハム新監督・新庄剛志の就任会見を眺めながら、四半世紀前の言葉を思い返した。

     1996年11月13日。プロ野球ゴールデングラブ賞の発表があり、セ・リーグ外野手部門で当時阪神の新庄が選ばれた。チームは2年連続の最下位でどん底にあったが、新庄は自慢の守備力が評価され、2年ぶり3度目の受賞だった。

     ハワイウインターリーグ、ヒロ・スターズに派遣されていた新庄に受賞の感想を聞こうと、ハワイ島の宿泊先ホテルに国際電話を入れた。肌寒い夜の甲子園球場記者席からかけた。

     新庄は「本当ですか!?」と驚き、素直に喜んでいた。左手首への死球打撲など故障で17試合欠場しており「今年は無理と思っていました。面倒をみてもらったコーチやトレーナーの方々に感謝しています」と話した。

     10月14日にハワイに渡り1カ月。久しぶりの会話は弾んだ。新庄はよくしゃべった。会社経費とはいえ、30分以上話し続け、電話代が気になった。

     前年95年シーズン途中の監督交代劇(中村勝広―藤田平)、同年オフの「自分にはセンスがない」との引退発言騒動。96年シーズン終盤での藤田監督解任、吉田義男監督の就任……と「暗黒時代」の激動の日々を振り返った。

     「勝ちたい」という思いから球団やチームへの不満が募っていた。そして、こう言ったのだ。

     「僕ね、こう見えても親分肌なんですよ」

     意外な言葉に「え?」と聞き返した。「ですから、親分肌です」当時24歳。「プリンス」と呼ばれた彼には似つかわしくない言葉だった。

     「周りのみんなが僕にチームに対する不満を言いにくるんですよ。ボクが代表して球団に訴えるんです。だから親分肌でしょう」

     内部規律や練習方法の改善点など、選手たちの意見をまとめ、球団に申し入れる。まだ若手だった新庄はそんな役どころだったそうだ。面倒見がよく、頼られる存在。確かに親分肌だと言える。

     当時、選手たちから選手会長に推薦されていたと、大リーグ・メッツ入りした2001年4月に出した著書『ドリーミングベイビー』(光文社)で明かしている。先輩たちから何度か「おまえが言えば、話が通るんじゃないか。選手会長になって球団にいろいろ文句言ってやれよ」と言ってきた。<皆が球団に対するもやもやとした不満を僕にぶちまけていた。僕が球団代表とかに、意見を直接言う人間だったからだと思う>。

     こうした球団への直言も「勝ちたい」という純粋な思いからきたものだ。<僕はタイガースで優勝したかった。優勝してみんなが喜んでいる姿を見たかった。そこには僕もいて、みんなとワイワイ騒いでいる。それを一度はやりたかった>。

     当時交際中で後に結婚するタレント・大河内志保が昨年11月に出した著書『人を輝かせる覚悟』(光文社)で<彼が素晴らしいのは、決して人の悪口を言わないところ>と記している。<人の失敗を喜ぶようなところも一切ない><そして嫉妬もしません><他人にへつらったりもしません>。

     そんな純粋さ、素直さ、さらに正義感の強さが親分のような信頼感を呼んでいた。

     4日の監督就任会見で報道陣に配布した名刺の肩書は「ビッグボス」だった。「監督と呼ばないで、ビッグボスでお願いします」と呼びかけた。バリ島で暮らしていた当時の呼び名だそうだ。

     そんな「大親分」の原点は阪神での若き日々にあったのだと思い返している。

     阪神担当キャップのころに1軍デビューした彼のメッツ入りに合わせ、2001年4月に渡米、開設したニューヨーク支局で大リーグ取材を続けた。帰国を前にした03年4月、シェイスタジアムのロッカーで別れを告げると、普段着ていたメッツTシャツと「tsu」(ツー)と書いたサインボールをもらった。ぽ~んと放り投げて「グッドラック」と笑っていた。思えば、あれも親分らしい行動だった。

     宇宙人、超人類……などと呼ばれたこともあったが、内面は非常に繊細で人情味にあふれている。よくぞ、野球界に戻ってきてくれた。何とも懐かしく、大いに楽しみにしている。 =敬称略= (編集委員)

     ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963(昭和38)年2月、和歌山市生まれ。桐蔭高(和歌山)―慶大卒。ニューヨーク支局から帰国後の03年4月から編集委員(現職)。大阪本社発行紙面で07年から掲載のコラム『内田雅也の追球』は15年目のシーズンを終えようとしている。




    新庄は阪神時代から「親分肌」だった 「ビッグボス」の原点 正義感と人情味に期待する― Sponichi Annex  https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2021/11/05/kiji/20211105s00001173325000c.html  大河内志保の新庄評 >決して人の悪口を言わないところ >人の失敗を喜ぶようなところも一切ない >そして嫉妬もしません それをするのが野村克也



    ビッグボスの会見は派手さが話題だけど、内容はとても真面目だし心に響く言葉がいくつもあった。 地元に球団がなかった北海道、日ハムが来てくれて新庄が盛り上げてくれて優勝してさらに盛り上がった。 また盛り上がるだろうな〜楽しみ。 個人的には、相談相手は自分自身っていうのがヒットワード。  https://twitter.com/mococo321/status/1456417741091471360 


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